昨晩、オンライン講座『今こそジェンダー!35の問い【第7回】』にトークゲストとして参加いたしました。ディスカッションの柱はこちら↓
①仏説無量寿経 第三十五願に対する個人的解釈
②バービー人形の正解は?
③生まれ変わるなら男がいい?女がいい?
④もし僧侶/絵師じゃなかったら?
いやはやディープな2時間でした。同じくゲストとして来迎院の小川氏がいらっしゃったのが大変心強く、codama氏やご参加の明行寺御住職の智昭さんなど知った顔ぶれに「多少ふざけても大丈夫そう」と安心いたしました。
野生の宗教家(!)というキャッチコピーをいただいた小粥。講座内でも申し上げたのですが、仏説無量寿経の第三十五願(変成男子の願)に関して、個人的には「経典が成立した時代背景の影響であろうし、結論如来様の本体であろう第十八願がすべてではないか」ということで納得しておりました。ただ、今回引っかかりを感じる側の気持ちもなるほどなぁと耳を傾けてわたくしが思うのは、人間が・人間の言葉で・仏さまの教えを説き伝えようとするならば、そこに多少認知の歪みや違和は出るであろうし、それは人間の手垢が付く限りなくなるものではないということです。仏教も色々あっての仏教。昔からされてきたであろうこの第三十五願についての議論も、この先変わらず続けられていくのかなと思います。でもそれでは真摯に向き合われた方にちょっと救いがないかもしれない、ならば仏さまとの一対一の世界のなかで、あなたのご本尊にまっすぐぶつけてみたらどうだろうかと考えます。たとえば今回「阿弥陀さま、この変成男子の願にどうしてもモヤモヤいたします」と申し上げる。さて、阿弥陀さまならなんとおっしゃるでしょう。わたしの思う阿弥陀さまなら、すべて見抜かれたうえで「安心せい」。以上、そのひとことだと妄想いたします。なんとありがたい(自分の一人二役の妄想であっても阿弥陀さまのありがたさは十分に味わえます)。仏さまは嘘は仰らないですから。
根本に怒りを持つと、正しさを探すようになります。でも正しさとはなんでしょう。なにかが問題視されているときに、わたしが思うのは「じゃあどういう世界になれば正しくなったといえるのか」ということ。戦うことは最善でしょうか。生きとし生けるもの、それぞれの喜びと幸せの形があるものだということを忘れぬようにしなければと思います。わたしにとって一度限りの人生、でも誰かにとっても一度限りの人生だ、ということ。改めて考える時間になりました。
みなさまとご一緒できて大変光栄でございました。合掌